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西山水木の鶏頭と蠍尾

哲学的解釈と文学的解釈

ぉフランスの哲学者にも話を聞きました。 ちょっとまた誤解釈があるやも知れませんが、 おいてみますね。 ===== 哲学も文学も、人間の目から見た宇宙に過ぎない。それでいいという人もあれば、それではいけないという人もいます。蛙や蟻の宇宙、細菌や細胞一つ一つにも宇宙があるし、生物だけではなく、ウイルスや銀河系にもそれなりの存在の場としての宇宙があります。すべての存在を支えている宇宙は人間の活動などには無関心。つまり人生に宇宙レベルでの客観的な意味や価値はないとぼくは思います。 自分の活動や思想に(単純に人生に)意味や価値を見いだしたいという欲望は、自分が無駄なことをしているのではないということを証明したいがためのあがきです。役に立つ、あるいは意味があるというのはごく限られた範囲でしか有効ではない思い込みに過ぎないでしょう。例えば環境破壊。2-3世代に限って言えば環境破壊を食い止めるのは意味のあることかもしれません。しかしもっとずっと先を見て、例えば太陽が死滅してしまう50億年先に、あるいはそれ以前になんらかの理由で地球脱出を図らねばならなくなったとき、今のままの人類は宇宙に出て行くにはひ弱すぎます。放射線や紫外線で死滅してしまうような生物は生き残れません。放射線や紫外線にも耐えうるような進化が絶対に必要です。まあそこまでして生き残る必要があるのかどうかは問題だけど、可能性として考えれば、環境保護でいわば保育器の中で進化を止めてしまうのか、過酷な環境に耐えうる進化を望むのか、人類に求められているの選択のひとつです。 こんな長ーいスタンスで、自分の人生を考えることが必要なのかといえば、まったく必要ないと思います。これは人類の生存継続の可能性についての展望で、そこまで考えたければ考えるし、考えたくなければそれでいいんです。ただ自分の人生に与える意味や価値がごく狭い範囲でしか有効ではないという自覚さえもっていれば。 意味を求めてあがいてしまうのは人間の性で、それが思想や芸術という形をとって様々な作品が生産されています。個々の作品の意味付けや価値は複雑怪奇な意味生成のシステムがあるので、それは専門家に任せるとして、大局的に見ると、永続的なと誤解されている意味や価値を追求するより、儚いもの、美しさだけではなく、緊張感や昂揚などといった、その場限りの今そこにしか存在できないものにもっと注意を向けてもいいのではないかと思います。 ===== あらためて、 私たちが演技する意味を考えてみよう。 なぜなら、50億年後の未来をイメージしながらも、どうしても生きていることが空しいとは思えない。私の小さな命に、意味がないとは思えない。 永遠、という観念。命自体に意味がない、ということさえ、意味ありげに面白く聞こえてしまうっていうことがまさに生きてる実感なのかな。 わずかな眉の上下。息継ぎのタイミング。嗚咽。にこだわって観察し、感じ、表現する。このささやかな喜びが50億年の長さよりも、より永遠の時間のように、私にみちている。時間って何だろう。私たちは過去から未来に向かって時間軸を本当に進んでいるのだろうか? 外の写真はこれでも稽古なんです。キャッチボールの石井揮之くんと佐藤滋くん。台本にかじりつく檀臣幸くん。

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