FC2ブログ
 

西山水木の鶏頭と蠍尾

ものの考え方 世界のとらえ方

すごくすごく美味しいものを食べたり飲んだりしているとき、生きる実感がちょっと遠のく時がある。俗に「ああ、もう、死んでもいい!」という決まり文句が出てきそうな時、哲学者吉良知彦氏が突然私にこう言った。 「ねえ、超ひも理論、どう思う?」 骨だけになったキンメのアラ煮と、八海山。そこに、突然…! 養老さんが何かのインタビューで言ったことを例に出して、物をとらえる・理解する時、言葉ばかりが作られて、その事で、その物の本当の意味を見失ってはいないだろうか? (ごめんなさい、こんな内容に受け止められた) 詩人・小峰公子はもう答えを持っているかのように「うん、うん」とリズムよく相槌を打って先を促す。 ! だって、それの言葉が発見された時、人は理解するのだ、じゃ、ないの? でも、私が本当に言いたいのはその意味とは少し違った。 吉良さんの質問に何か私の中でぴかりと光ったのだ。 で、いつも読んで智慧の参考にしているBLOGの内容を思い出して、必死に説明する。 でもやはり、うまく説明できないし、直接読んでいただく方が早いのでここに貼り付ける。 『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu of ODA Watchersより カテゴリー=不連続的差異論 『イデア』とは、「方向性」のみを特性とする概念の総称である、と定義することが不連続的差異論から導かれる。 つまり、「イデア」とはベクトルである。 (中略) 『善』も『悪』も、一つの方向性のみを表す「概念」である。 『花』がイデアとなるには、『抽象的な「花」』への方向性を示す必要がある。『抽象的な「花」』というものがあるのではなくて、その「方向性」が存在するのである。 種をみても、茎をみても、花びらを見ても、何も見なくても、「花」への方向性が存在する。これが「イデア」である。 ここで重要な点は、イデア界に「抽象的「花」」が存在するのではない、という点だ。「花」は現象界とメデイア界にしか存在しない。イデア界は、純然たる「方向性」の世界である。この方向性の次元が、どの程度の多次元であるかは今度の研究に委ねることになる。 一方、現象界と呼ばれる「現実」世界には、「実数」として方向性は失われる。これらの点は「連続」しており、「⇒」の「付け根」と「先」は固定されている。このため、同じ方向性でも区別が可能で在る。 ところが、イデア界では、同じ方向のものは同じと判別される。 「花」は「花」である。 さて、「イデア」と「現象」の中間にある「メデイア」界は、どのような状態なのか? これは、風車のように、クルクルと、方向が回転している状態である。 メデイアとは、プラスチックで作った「造花」とか、「花」の写真とか、テレビに映った「花」のことである。これは、方向性を示しているが、イデアである「花」を示すかと思うと、プラスチックの臭いがしたり、「テレビの『花』」という別の方向性の虜になったりする。ここ「メデイア界」では、『「花」であり、且、「花でない」』という状況が存在の構造となっている。 (後略) ちゃんと読みたい方はこちら 参考:イデア [idea] 〔見られたもの、知られたもの、姿、形の意〕プラトン哲学の中心概念。個々の事物をそのものたらしめている根拠である真の実在。例えば、個々の人間は人間のイデアに与(あずか)ることによって人間であるとされる。中世においては創造者である神のうちにある万物の原型として捉えられ、近世では人間の意識内容としての観念(アイデア)、また理念などの意義をもつに至る。(大辞林)

PageTop
 

コメントコメント


管理者にだけ表示を許可する
 

御紹介、頂いて有難う御座います。
西山水木さんが、私の語った内容を、「真髄」で御理解頂けていることが、なにより嬉しいです。
「超ひも理論」については、個人的な感じを書いてみると、結局、「分からない所を、繋ぎ合わせる」ために、「ひも」という、どうにでも説明の付く「道具」を新しく持ち出してるんじゃないの?、という感想が素直な所です。
「すごくすごく美味しいものを食べたり飲んだりしているとき、生きる実感がちょっと遠のく時がある。」⇒この観点の方が、私にとっては、「ドキっ」とする感性です。
これは、
「トンネルを抜けると雪だった。」とか、「熱帯のジャングルの暗闇の中から『煌く太陽』に出会った感じ」です。
『食べ物」を「支配」しているはずの「人間」』が、食べ物に「支配」されている、という感覚を持ってしまうと、「不連続的差異論」では説明できると思っています。
人間が「食べ物」に向かっている「⇒矢印」が、反転して、「食べ物」が「人間」を支配し、食べ物から、矢印が出て、人間を指し示してくる、感じです。
或いは、その二つの、相反する「矢印」が、入り乱れることで、「メデイア化」してしまい、「方向性」を喪失してしなうと説明できると思います。(不連続的差異論で「メデイア界」という場合、「Aであり、且、非Aである世界」のことです。
自分が存在する感覚と、存在しない感覚が、不連続に、激しく交錯しはじめると、「メデイア」の世界に彷徨いことになります。
ここで、強い「意志」或いは、「自己保存能力」が備わっていると、再度、「メデイア界」から「新しい自己」(イデア)を指し示すことになるのでしょう。
「すごくすごく美味しいものを食べたり飲んだりしているとき、生きる実感がちょっと遠のく時がある。」⇒この観点から、多くのことを学ぶことが出来ます。

kaisetsu of ODA Watchers | URL | 2006/06/14 (Wed) 13:59 [編集]


 
 

トラックバックトラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


Platonic Synergyという考え方を提唱する理由

[続きを読む]

Platonic Synergy / 2011/01/08 (Sat) 09:32


結局、「イデア界」には「イデアは存在しない。」

[続きを読む]

『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu of ODA Watchers / 2011/01/08 (Sat) 09:32