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西山水木の鶏頭と蠍尾

これに尽きる(仙台)


私の命について考えている。 時間軸を逆に読めば見事に物語を織りなす。偶然の積み重ね。偶然生きている私。 私を私から離れ、私怨(ルサンチルマン)なしに「批判」する。 役を演じるってそういう事かな? 私は私から離れられない。 私から離れ自由な魂の事については、人間のことばで語れない。 少なくとも、日本語では語れない。 まず、経験と、想像があって、演劇がある。 私は演劇でしか、私から離れられない。 それから言葉を発見する。それから、知識になる。

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ばら色の人生

「例えば、飢えしか知らずに死んで行くアフリカの子供達の人生って空しい人生だと思いますか。」 師匠の、この問いかけに答えるために、この何日も、考えた。考え続けた。 この問いに答える言葉を、私はまだ使っていない。 使用説明書を今読んでいる。

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哲学的解釈と文学的解釈

ぉフランスの哲学者にも話を聞きました。 ちょっとまた誤解釈があるやも知れませんが、 おいてみますね。 ===== 哲学も文学も、人間の目から見た宇宙に過ぎない。それでいいという人もあれば、それではいけないという人もいます。蛙や蟻の宇宙、細菌や細胞一つ一つにも宇宙があるし、生物だけではなく、ウイルスや銀河系にもそれなりの存在の場としての宇宙があります。すべての存在を支えている宇宙は人間の活動などには無関心。つまり人生に宇宙レベルでの客観的な意味や価値はないとぼくは思います。 自分の活動や思想に(単純に人生に)意味や価値を見いだしたいという欲望は、自分が無駄なことをしているのではないということを証明したいがためのあがきです。役に立つ、あるいは意味があるというのはごく限られた範囲でしか有効ではない思い込みに過ぎないでしょう。例えば環境破壊。2-3世代に限って言えば環境破壊を食い止めるのは意味のあることかもしれません。しかしもっとずっと先を見て、例えば太陽が死滅してしまう50億年先に、あるいはそれ以前になんらかの理由で地球脱出を図らねばならなくなったとき、今のままの人類は宇宙に出て行くにはひ弱すぎます。放射線や紫外線で死滅してしまうような生物は生き残れません。放射線や紫外線にも耐えうるような進化が絶対に必要です。まあそこまでして生き残る必要があるのかどうかは問題だけど、可能性として考えれば、環境保護でいわば保育器の中で進化を止めてしまうのか、過酷な環境に耐えうる進化を望むのか、人類に求められているの選択のひとつです。 こんな長ーいスタンスで、自分の人生を考えることが必要なのかといえば、まったく必要ないと思います。これは人類の生存継続の可能性についての展望で、そこまで考えたければ考えるし、考えたくなければそれでいいんです。ただ自分の人生に与える意味や価値がごく狭い範囲でしか有効ではないという自覚さえもっていれば。 意味を求めてあがいてしまうのは人間の性で、それが思想や芸術という形をとって様々な作品が生産されています。個々の作品の意味付けや価値は複雑怪奇な意味生成のシステムがあるので、それは専門家に任せるとして、大局的に見ると、永続的なと誤解されている意味や価値を追求するより、儚いもの、美しさだけではなく、緊張感や昂揚などといった、その場限りの今そこにしか存在できないものにもっと注意を向けてもいいのではないかと思います。 ===== あらためて、 私たちが演技する意味を考えてみよう。 なぜなら、50億年後の未来をイメージしながらも、どうしても生きていることが空しいとは思えない。私の小さな命に、意味がないとは思えない。 永遠、という観念。命自体に意味がない、ということさえ、意味ありげに面白く聞こえてしまうっていうことがまさに生きてる実感なのかな。 わずかな眉の上下。息継ぎのタイミング。嗚咽。にこだわって観察し、感じ、表現する。このささやかな喜びが50億年の長さよりも、より永遠の時間のように、私にみちている。時間って何だろう。私たちは過去から未来に向かって時間軸を本当に進んでいるのだろうか? 外の写真はこれでも稽古なんです。キャッチボールの石井揮之くんと佐藤滋くん。台本にかじりつく檀臣幸くん。

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ものの考え方 世界のとらえ方

すごくすごく美味しいものを食べたり飲んだりしているとき、生きる実感がちょっと遠のく時がある。俗に「ああ、もう、死んでもいい!」という決まり文句が出てきそうな時、哲学者吉良知彦氏が突然私にこう言った。 「ねえ、超ひも理論、どう思う?」 骨だけになったキンメのアラ煮と、八海山。そこに、突然…! 養老さんが何かのインタビューで言ったことを例に出して、物をとらえる・理解する時、言葉ばかりが作られて、その事で、その物の本当の意味を見失ってはいないだろうか? (ごめんなさい、こんな内容に受け止められた) 詩人・小峰公子はもう答えを持っているかのように「うん、うん」とリズムよく相槌を打って先を促す。 ! だって、それの言葉が発見された時、人は理解するのだ、じゃ、ないの? でも、私が本当に言いたいのはその意味とは少し違った。 吉良さんの質問に何か私の中でぴかりと光ったのだ。 で、いつも読んで智慧の参考にしているBLOGの内容を思い出して、必死に説明する。 でもやはり、うまく説明できないし、直接読んでいただく方が早いのでここに貼り付ける。 『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu of ODA Watchersより カテゴリー=不連続的差異論 『イデア』とは、「方向性」のみを特性とする概念の総称である、と定義することが不連続的差異論から導かれる。 つまり、「イデア」とはベクトルである。 (中略) 『善』も『悪』も、一つの方向性のみを表す「概念」である。 『花』がイデアとなるには、『抽象的な「花」』への方向性を示す必要がある。『抽象的な「花」』というものがあるのではなくて、その「方向性」が存在するのである。 種をみても、茎をみても、花びらを見ても、何も見なくても、「花」への方向性が存在する。これが「イデア」である。 ここで重要な点は、イデア界に「抽象的「花」」が存在するのではない、という点だ。「花」は現象界とメデイア界にしか存在しない。イデア界は、純然たる「方向性」の世界である。この方向性の次元が、どの程度の多次元であるかは今度の研究に委ねることになる。 一方、現象界と呼ばれる「現実」世界には、「実数」として方向性は失われる。これらの点は「連続」しており、「⇒」の「付け根」と「先」は固定されている。このため、同じ方向性でも区別が可能で在る。 ところが、イデア界では、同じ方向のものは同じと判別される。 「花」は「花」である。 さて、「イデア」と「現象」の中間にある「メデイア」界は、どのような状態なのか? これは、風車のように、クルクルと、方向が回転している状態である。 メデイアとは、プラスチックで作った「造花」とか、「花」の写真とか、テレビに映った「花」のことである。これは、方向性を示しているが、イデアである「花」を示すかと思うと、プラスチックの臭いがしたり、「テレビの『花』」という別の方向性の虜になったりする。ここ「メデイア界」では、『「花」であり、且、「花でない」』という状況が存在の構造となっている。 (後略) ちゃんと読みたい方はこちら 参考:イデア [idea] 〔見られたもの、知られたもの、姿、形の意〕プラトン哲学の中心概念。個々の事物をそのものたらしめている根拠である真の実在。例えば、個々の人間は人間のイデアに与(あずか)ることによって人間であるとされる。中世においては創造者である神のうちにある万物の原型として捉えられ、近世では人間の意識内容としての観念(アイデア)、また理念などの意義をもつに至る。(大辞林)

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